【北の地の1996】誕生前夜 誘致活動に奔走した野村満さん&創設期のクラブ運営支えた中川公彦さん「(願いは)クラブがあり続けること」
創設前の「札幌SJクラブ」に携わった2人
北海道コンサドーレ札幌が誕生した1996年を、関係者の視点で振り返ってきたクラブ創設30周年企画「北の地の1996」。最終回のテーマは「コンサドーレはどのように誕生したのか」。北海道初のプロスポーツチーム誕生に向けて活動した組織は複数存在するが、今回は「札幌SJクラブ」に携わった、札幌の出版社「イエローページ」の社長を務め、クラブ創設のために力を尽くした野村満さん(69)、SJクラブの事務局次長を経て、創設期のクラブ運営会社で業務にあたっていた中川公彦さん(65)の回顧とともに、当時を振り返る。
1993年5月15日、日本初のプロサッカーリーグ「Jリーグ」が誕生。鹿島、浦和、市原(現千葉)、V川崎(現東京V)、横浜M(現横浜FM)、横浜F(99年に横浜Mと合併)、清水、名古屋、G大阪、広島の「オリジナル10」で産声を上げた初年度は、全180試合で320万人以上の動員を記録するなど、華々しいスタートを切った。
日本各地でJリーグ入り目指す動きが
初年度の10チーム以外にも、参入を希望するクラブが複数存在していたこともあり、Jリーグは入会条件を満たす、またはそれに準ずる環境を保持するクラブを「準会員」として認定。準会員で、かつ93年のJFLで優勝した平塚(現湘南)、同2位の磐田が、翌94年から新たにJリーグに加盟。この他にも、Jリーグ入りを目指すサッカークラブ創設への動きが日本各地で巻き起こっていた。
そんなJリーグ開幕から間もない93年夏。〝プロスポーツ不毛の地〟北海道でも、Jリーグ入りを目指すクラブ創設に向けた動きが走りだそうとしていた。野村さんは当時を振り返る。「JALの浜田(翼)さん(後に運営会社の常務取締役を務める)と俺が、何かの打ち合わせが終わって、一緒にビールを飲んでいたら『お前、この頃機嫌悪いな』みたいなことを言われて。Jリーグがどうのこうのというのもできないし面白くないな、と言ったら、浜田さんが『おっ、そしたら俺たちで作ればいいんじゃないか』と言い始めて」
当時の2大方法は「自生型」と「誘致型」
当時のJリーグを目指すクラブのつくり方には、大きく分けて2つの方法があった。ひとつは、既存の地元クラブを強化し、都道府県リーグ、地域リーグ、JFLとステップを踏んで、数年後のJリーグ加盟を目指す「自生型」。そしてもうひとつが、既にJFLに加盟しているクラブを誘致して、最短距離でJリーグに加盟する「誘致型」だった。当時の北海道内では、野村さんたちの他にも将来的なJリーグ入りを目指して活動する団体が複数存在していたが、その手法は「自生型」「誘致型」と、団体によって様々だった。
サッカークラブ創設に向けて走り始めた2人は、周囲に呼びかけて仲間を募り、週1回ほどのペースで会議を実施。その中のメンバーの交友関係を通じて、当時の日本サッカー協会会長だった長沼健さん(故人)や、「清水サッカー生みの親」とも呼ばれた堀田哲爾さん(故人)、名門・清水東高の監督として多くのJリーガーを輩出した勝沢要さん(故人)ら、サッカー界の重要人物たちとの人脈を築き上げていく中で、次第に方針は「誘致型」へとシフトしていった。
当時の堀知事の協力得て、あるクラブに接触
その頃野村さんは、後にJクラブとなった、とあるサッカークラブの社長と対面する機会を得た。話の中で誘致への手応えを感じたことから、元々面識のあった、当時の北海道知事だった堀達也さん(故人)に相談。そのクラブが北海道に移転した際には、道庁も応援するという言葉も取り付けた。
▼▼ここから有料記事(あと3900字)▼▼
・カワブチです
・母親同士が…
・ホーム厚別開催の苦労
・願うこと