山県秀 〝守備の礎〟を築いた河川敷のグラウンド 「すごくためになった」中3冬の練習とは―
稲城リトルシニア時代の山県=提供写真
忘れられないあの場所
日本ハムの山県秀内野手(23)には〝守備の礎〟を築いた場所がある。中学時代に毎週末、国分寺市の自宅から自転車で35分かけて通った稲城リトルシニアのグラウンドだ。
「それで腰が痛くなったりしましたね」と、今では笑って話せる思い出となっている。
誰もが驚いた公式戦1号 恩師もびっくり
プロ1年目の今季は4月中旬に1軍初昇格し、持ち前の守備で存在感を発揮。8月に2週間ほど2軍再調整を経験したが、今やチームに欠かせない選手となっている。
6月4日の阪神戦の四回2死一塁、プロ初本塁打を放った山県
6月4日の阪神戦(エスコン)ではプロ初本塁打をマーク。公式戦に限れば、小学生時代以来の一発を放ち、リトルシニア関係者を驚かせた。当時指導した森川博紀監督(51)は「ホームランを打ったことがない。バントばかりだった。本当、びっくり。1号ホームラン、受注生産のタオルは買いました。〝道民の孫〟ですよね」と目を細める。
抜群の守備力を誇る目立たない子
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リトルシニア時代はショートを守り、主将を任された時期もあった。
「真面目な子。目配り、気配りができるタイプ。守備は上手でしたね。当時、伊藤優というショートもいたけれど、そっちの方が肩が強かったからセカンド。ゲッツー取る時に、反対向きで投げるから肩が強い方がいいなと」。抜群の守備力は誰もが認めるところだったが、そこまで目立つタイプではなかった。
学生コーチ指導の下で汗を流した日々
ターニングポイントとなったのが、中学3年の冬だった。早大学院への進学が決まっていた山県は、学生コーチだった小宮健太さん(35)と守備練習に明け暮れた。
当時、クラブチームに所属することが決まっていた小宮さんは、SNSなどで見つけた練習法を取り入れていた。「僕自身もチームに入るので、自分自身もうまくなりたい気持ちもあって、学生コーチをしていた。思い付いたメニューを一緒にやっていました」と振り返る。
稲城リトルシニアの小宮健太コーチ=撮影・中田愛沙美
遊び感覚の練習でメキメキ上達
進路が決まっている中学3年生が集まり、土日に2時間ほどサブグラウンドでゴロ捕球などを行う。小宮さんは「本当に守備がうまくて、僕的には教えたとかはないです」と謙遜するが、一見、普通の練習が山県にとって大きな財産となったという。
「小宮さんも一緒にやってくれていたんです。それが良かったんです。やっぱり、手ゴロじゃないですかね。手で転がしてもらって、それを低い姿勢で(捕球するために)速く動くみたいなのを結構やっていて。遊び感覚でやるノックとかも多くて。河川敷のグラウンドで、すごい石があるんですよ。イレギュラーするので、ああいうところで遊び感覚でやっていたのはすごくためになったのかなと思います」
内面の成長を促してくれた仲間の存在
稲城リトルシニア時代の山県=提供写真
切磋琢磨できる仲間の存在も大きかった。その練習には、二遊間を組んでいた伊藤さんもいた。
「伊藤が、自分がプロに入るまでに組んだ二遊間で一番うまかったんじゃないかって。自分のレベルが低かったのもありますけど。(高校では)国士舘で甲子園に出て。そいつの方が守備がうまくて、肩も強かったんです。自分より全然うまかったんで、ミスがあるないとかではなくて、守備の形自体がキレイで、本当にうまくて。自分も、中学の時とかうまかったらちょっと慢心するじゃないですか。というのがなかったのは、彼のおかげかなと思います」
自慢の教え子は今や子どもたちのお手本
現在、小宮さんは稲城リトルシニアでコーチを務めている。プロ入りした〝教え子〟の動画を「見あさっています。動き出し、一歩目の速さとかを見ています」と参考にしており、「やっていたことは間違いじゃなかったかな」と、うれしそうに語る。
守備職人・山県が誕生した裏には、河川敷のグラウンドで白球を追った日々があった。
稲城リトルシニア時代の山県=提供写真