【一問一答】木田優夫GM代行 恩師・長嶋茂雄さんを悼む「一緒に野球をできたのは貴重な時間だった」

〝ミスタープロ野球〟長嶋茂雄さんが3日、89歳で逝去した。1993年から5年間、長嶋さん指揮の下、巨人でプレーした日本ハムの木田優夫GM代行(56)が報道陣の取材に応じ、長嶋さんとの数々の思い出を振り返った。一問一答は以下の通り。また、新庄剛志監督(53)と栗山英樹CBO(チーフ・ベースボール・オフィサー、64)も追悼の思いを寄せた。
―長嶋茂雄さんの訃報を受けてのお気持ちを
「まずは本当に非常に残念で。たくさんの思い出がありますし。ただ最近なかなかお会いできていなかったので、きょうの朝に知って、もう一回、会いたかったな、話したかったな、というのが一番です」
―いつ訃報を知ったか
「きょうの朝、テレビで。速報を見て」
―最後にお会いしたのはいつか
「ファームの監督をやっている時に、ジャイアンツ球場に練習視察に来られた時に、ちょっとあいさつをしたのが最後です」
―5年間、監督と選手として一緒に巨人に在籍していたが、一番印象に残っていることは
「もういっぱいあって。いろいろな思い出があって、どちらかというと本当によく怒られていたので。神宮で投げていて、隣でJリーグが開幕した日(1993年5月15日)に負けて、『こんな大事な時に、大事な日に』みたいに言われた時もあったし、いろいろあったなと。本当にいろいろな思い出があるけど、一番は96年、〝メークドラマ〟と監督が言った時の、最後のメークドラマの締めくくりの日(10月6日)に、勝ち投手になれたということが、一番良い思い出だったかな。本当に怒られたし、でもやっぱり長嶋さんといるとね、いろんなことがあったので。一番覚えているのは、怒られたんだけど、最後に『おまえは俺の言うことを聞いていれば大丈夫だから』と。『俺は全部、分かる。俺は宇宙人なんだから』って言って出て行ったことがあって、この人やっぱり宇宙人なんだなと思って。そういったこともたくさんあったし。94年の時、国民的行事(と言われた、10月8日の中日との同率首位決戦)って最後、ナゴヤで勝った方が優勝という試合。実は登録を外れていて。ベンチ裏で応援していたんですけど、その時は悔しかったので、次こういう時は自分が投げてやる、と思ってやっていく中で、96年、最後、優勝できる日に投げさせてもらえたので、あの時は本当にうれしかったし、良い夢を見られました」
―メークドラマを成し遂げた時に、監督からは何かを言われたか
「いや、終わってからは別に特にないけど。その日は先発が宮本(和知)さんで、宮本さん、水野(雄仁)さん、僕、川口(和久)さん、河野(博文)さんの5人が試合前に呼ばれて、『きょうはこの5人でいくから』と。『勝つんだ、勝って優勝するんだ』と言われて、その5人で本当に投げて勝ったので。終わってからは、みんなで優勝を喜んで、それで終わっているので、特にはないですけど、そういう流れで、実際に勝てたので良かったなと」
―長嶋監督時代にはあらゆる場面で起用された。今、振り返っての当時の思い出は
「いろいろなところで投げさせてもらえて、いろいろな怒られ方もしたけど、本当にいろいろな経験を。今のピッチャーに言ったら、あまり信じてもらえないかもしれないけど、先発して5イニング投げて、中1日でリリーフで4イニング投げるとか、3日がかりの完投とか、そんなのをやったりしていたので。でもそれだけ本当に使ってくれたから、その後いろいろなところに行って、いろいろな使われ方をして、いろいろな経験ができたんだと思うので。やっている間は、やっぱり調整が難しかったりとか、そういうのもあったけれども、その時もそうだけれども、今でもやっぱり感謝しています」
―最後にお会いしたジャイアンツ球場では、どんな話をされたか
「向こうもジャイアンツの練習中で、こっちももちろん試合前の練習の準備をしなければいけないところだったので、本当にあいさつ程度で。まだまだお会いするチャンスはあると思って、その時はあいさつだけだったし。よく長嶋さん、人の名前を覚えないというエピソードがいっぱいあるけども、きょうずっといろいろなことを考えて、思い出したら、まだ1軍に上がる前に、長嶋さんが解説で宮崎キャンプに来られて、たまたま球場の入り口で会ってあいさつをしたら、逆に長嶋さんの方から『おお、木田くん』と言われて。その時から名前を覚えていただいたな、名前を覚えてもらっていたなと思って。石川に独立リーグで行っている時、宮崎キャンプに行った時に、長嶋さんがちょうど来られていて。話した時に『そういえば、おまえ最近、朝、テレビに出ていないか』と言われて。僕がちょうどテレ朝でレギュラーを持っていて、毎週出ていた時だったので、見てくれているんだ、というのはあって。考えたら、最初から名前を覚えてもらって、何十年たった時でもそうやってテレビで見て、気にかけてくれていたというのは、本当にうれしいです。あんなすごい人と、同じ時間を過ごして、一緒に野球をできたのは、貴重な時間だったなと今、思っています」
―初対面以降、名前を間違えられたことはないか
「本当に間違えられたことはないよ、俺は。ただ(95年にFAの人的補償で)ファイターズに来た川辺(忠義)というやつは、最後まで川辺なのに『ワタナベ』って呼ばれていたし。本当にいろいろなことがあったんだけど、東京ドームの(木田GM代行の)ロッカーが、トイレから出てきて、入ったところが指定席で、ずっとトイレから出てきたら、俺のバスタオルで手を拭いていて。それだけは直らなかった」
―直すように直接、伝えたか
「マネジャーには。その時ジャイアンツが、バスタオルをあまり使うなと言われていた時があって、それだったら監督に手を拭くのをやめさせてくれと、マネジャーには言ったことはあるけど、監督には言っていない」
■新庄監督
「突然の訃報に驚いていますし、非常に悲しく残念な思いです。長嶋さんは野球界のレジェンドであり、野球の愉しさや醍醐味(だいごみ)を多くのファンに伝えてくださった方だと思います。長嶋さんのプレーや言葉を見ても、とてもファンを大事にされている印象でした。心よりご冥福をお祈りいたします」
■栗山CBO
「長嶋さんに初めて声をかけていただいた時のことは一生忘れません。『いい選手になれる素質があるから頑張りなさい』と、背中を押してもらいました。結果を残すことができずに現役を引退した時も、最初に声をかけていただいたのが長嶋さんでした。『指導者としての勉強をしないか?』と打診されたことがあります。真剣に指導者になるための勉強をしないといけない、と思えるきっかけをプレゼントしてもらいました。その後の私の野球人生にとって、とても大きな言葉になりました。 WBCの時に授かったメッセージは、強く記憶に残っています。『野球というスポーツがこれから先も長く続くように、一生懸命やってください』と託されました。続けて『高校野球をとにかく守りなさい』とも、おっしゃっていました。その時に野球界のことをすごく心配されている、という長嶋さんの思いを知ることができました。われわれ、野球人がこれから一番大切にしないといけない野球の原点が高校野球であることを、再認識できました。長嶋さんのその思いのお陰でWBCも優勝できたと思っています。 本当に残念で悔しいですが、長嶋さんの思いを少しでも体現できるようにわれわれはこれからも全力を尽くしていきます。 『プロ野球=長嶋茂雄、、、ミスター』 長嶋さんへの感謝は一生忘れません。野球人は皆、その思いです。謹んで、ご冥福をお祈りいたします」