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2021/11/12 11:08

【アーカイブ・2020年連載企画】逆境を乗り越えよう⑮  車いすバスケ代表HC京谷和幸 「今できることを全力でやるしかない」

 交通事故で脊髄を損傷し、プロサッカー選手として引退を余儀なくされた京谷和幸(49、室蘭出身)。車いすバスケットボールへと活躍の場を移し、これまで4度のパラリンピックに出場した。今年1月には来年の東京大会に出場する日本代表のヘッドコーチ(HC)に就任。指揮官として夢の舞台に舞い戻る。特別企画「逆境を乗り越えよう」の15回目は、下半身の自由を奪われながらも華麗なる転身、復活を遂げたパラリンピアン。(聞き手・神馬崇司)
(本連載企画は2020年8月に掲載されたものです)

Jリーガーが自動車事故で脊髄損傷に

 1993年、Jリーグが発足した。22歳だった京谷はジェフ市原(現千葉)に所属していた。10月のカップ戦で公式戦初出場。プライベートでは同い年の陽子さんとの結婚が決まっていた。公私ともに順風満帆だった。だが、悲劇は突然、訪れた。同年の11月28日未明、知人宅からの帰り、雨中の運転で交差点を曲がり切れず、電柱に衝突した。脊髄を損傷し、後に車椅子での生活を余儀なくされた。

 「つらい、苦しい、そういう思いがありました。でも悲しんでいる暇はなかった。妻は自分との入籍を迷わなかった。守らなきゃいけない。自分が重荷になってはいけない」

悔しくて「五輪を目指す」と宣言

 翌年の94年秋に退院。その後、運命に導かれるように車いすバスケと出合い、のめりこんでいった。2000年のシドニーを皮切りに4大会連続でパラリンピックの舞台に立ったが、退院直後にはすでに日の丸を背負うことを宣言していた。

 「室蘭で結婚披露バーティ―を開いたんです。同級生や先輩、後輩が多く来てくれた。でも口には出さずとも『サッカー小僧だった京谷は終わった』って空気が漂っていた。悔しかった。そこで言っちゃったんです。『オリンピックを目指します』と。当時はパラリンピックの存在すら知らなかった。『俺はサッカーだけじゃない』というのを見せたかった」

「このままじゃ終われない」

 京谷は自身の人生を振り返り、「常に逆境にさらされてきた」と述懐する。それが飛躍の原動力であるとも言い切る。

 「(小学2年で)サッカーを始めた時もそう。決して裕福な家庭ではなかったですし、ライバルも多かった。いつも反骨心とハングリー精神を持ってプレーしてきた。事故を起こしたときもこのままじゃ終われないって。常にそういう気持ちで高みを目指してきました」

「自分は決して強くない」

 努力なくして成功はつかめない。それでも「自分は決して強くない」と断言する。家族の存在が大きいと繰り返す。96年には長女、99年には長男が誕生した。

 「障害のことで子供たちに不憫な思いをさせたくない。何か一つ輝けるものを。それがバスケでした。僕が強いわけじゃない。家族や周囲が環境をつくってくれたんです」

失敗は成長のもと

 今年、新型コロナウイルスが生活様式を一変させた。スポーツ界も大打撃を受けた。

 「今できることを全力でやるしかない。環境は変えられないですが、自分自身の考えは変えられる。考えが変われば、行動が変わる。行動が変われば、結果も変わる。失敗もある。でも失敗は間違いを教えてくれる。失敗は”成長”のもと」

 常に全力で挑戦し続けてきた。京谷は今、指揮官として来年の大舞台を見据えている。(2020年8月24日掲載)

 

 

 ■やるからにはメダル獲得を
 今年1月、京谷は日本代表のHCに就任した。東京五輪、パラリンピックの1年延期に、「そこにすべてを懸けていた選手もいる。選手のことを考えると複雑な思いがある」と正直な胸の内を吐露する。それでも指揮官として「チームをさらに強くできる期間をいただいた」と前を向く。
 15年からは代表でアシスタントコーチのも務めてきた。「今までは選手とHCとのつなぎ役でした。近寄りすぎると選手に感情移入してしまう。評価や選考に影響する。今後は自分の中で線を引かなければいけない」。心を鬼にし、チーム強化に徹するかまえだ。
 新型コロナウイルスに関わる緊急事態宣言が解除となり、7月からは代表合宿が再開されている。リスタートに際し、コロナ対策を盛り込んだ活動マニュアルの作成にも携わった。「自分の采配一つで試合が決まる。やるからにはメダル獲得を目指す」と意気込む。

 ■京谷和幸(きょうや・かずゆき) 1971年(昭和46年)8月13日、室蘭市生まれ。小学2年でサッカーを始め、室大谷高時代にはインターハイに2度、国体に3度、高校選手権に3度出場。2年時にユース日本代表、3年時にはバルセロナ五輪代表候補に選ばれた。卒業後、実業団の古川電工(現ジェフ千葉)に入社・91年にジェフ市原とプロ契約を結んだ。93年に事故で引退。94年から車いすバスケの千葉ホークスに加入。日本選手権で2度の3連覇を達成するなどで大活躍。2005年にはMVP賞を受賞した。パラリンピックには選手として4度(シドニー、アテネ、北京、ロンドン)出場。北京大会では日本選手団主将を務めた。家族は妻と1男1女。

(2020年8月24日掲載)
 

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