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2021/11/18 10:43

【アーカイブ・2020年連載企画】逆境を乗り越えよう⑱  スキージャンプ・金子祐介 事故、妻の死を乗り越えて得た境地

 特別企画「逆境を乗り越えよう」の第18回は、ノルディックスキージャンプの金子祐介(44、札日大高出)。2005年11月、フィンランド合宿中に生死に関わる大けがを負い、06年トリノ五輪出場のチャンスを逃した。高次脳機能障害の後遺症から、選手として復帰するまで支えてくれた妻・ひとみさんを12年に病で亡くした。壮絶な人生を送ったが、現在は東京美装スキー部の監督兼コーチとして、後進の育成に手腕を発揮している。=敬称略
(本連載企画は2020年10月に掲載されたものです)

事故で生死の境をさまよった

 札幌・大倉山ジャンプ競技場に、05年3月~12年1月まで、7シーズンにわたって破られることのなかった最長不倒145メートル。その大記録を打ち立てた金子の半生はどん底の連続だった。

 05年11月。合宿地のフィンランドで事故は起きた。踏み切ってすぐに空中で右のスキーが金具から外れ、バランスを崩したまま、頭から地面に激突。一時は心肺停止に陥ったが、近くにいたトレーナーが人工呼吸を施し、息を吹き返した。頭蓋骨と上下顎を骨折し、6時間に及ぶ緊急手術。1週間後、日本に搬送された。

記憶障害と高次脳機能障害

 1カ月間の昏睡(こんすい)から目覚めたときには、「自分が誰なのかも分からないし、日本語も全て忘れていた」。そばにいた父親と後に結婚するひとみさんのことも思い出すことができなかった。

 五輪出場の夢はかなわなかった。「世界、五輪、金メダルを目指している中で最後のチャンスだった」。けがからのリハビリはもちろん、記憶障害と高次脳機能障害から、日常生活への復帰の道のりは過酷だった。「また最悪の一日が始まってしまった。死にたい」と思う日が1年以上も続いた。

奇跡の復活も妻ががん発症

 ひとみさんの献身的な支えがあり、事故から1年後の06年11月の復帰戦でいきなり優勝。「生き続けたから優勝という出来事に励まされた一日」と、生きる勇気が少しずつ沸き上がった。

 翌年7月にひとみさんと結婚。ところが再び、試練が2人襲った。ひとみさんが子宮がんを発症。そのシーズン限りで現役を引退し、「今度は自分が支える番だ」と誓った。

「全ての出来事には意味がある」

 闘病生活を共に4年以上闘った12年5月18日、ひとみさんは37歳で帰らぬ人となった。亡くなって3年間は思い出の物に触れると絶望的になったしかし、今は良い思い出と受け止めることができる。

 なぜ、自分に大きな試練が訪れるのか、自問自答しない日々はなかった。ケガを負った時の前後は今でも思い出すことができない。だが、「全ての出来事には意味がある」と前を向く。あのとき、自分ではなく「もし、チームメートが同じ目に遭ったら、命が…」。

 どんなことが起きようと、全て自分に必要なことだったんだと受け入れることが、困難を切り開くことにつながると信じ続ける。(西川薫)


 ■金子 祐介(かねこ・ゆうすけ) 1976年4月18日、札幌市生まれ。札幌盤渓小4年の時に札幌ジャンプ少年団で競技を始める。札日大高-日大を経て、99年に東京美装に入社。2003年3月、国際蔵王NHK杯(ノーマルヒル)優勝。08年に現役引退。同年、北海道文化放送が激動の半生をつづったドキュメンタリー番組を放送。13年にドラマ化された「バッケンレコードを超えて」は大きな反響を呼んだ。20年1月に国際飛型審判員の資格取得。174センチ、61キロ。独身。

 ■指導者として五輪メダルを! 金子は現在、指導する選手の活躍を「自分の優勝よりも10倍も20倍もうれしい」と、まるでわが子のように生き生きとした表情で振り返る。
 08年の現役引退後、14年に念願だったコーチに就任する形でスキー界に復帰。17年からは菅野範弘総監督(58)の下で監督兼コーチに就任。純ジャンプ、複合、距離の選手合わせて6人の部員を指導する。
 けがをして記憶を失う前の現役時代は、後輩には厳しく接していたという。ところが、指導者になって6年目の昨季、選手と個人面談を繰り返し、「選手の夢をかなえるために、私にどんなことがサポートできるのか?」と選手と一緒に考え、行動している。
 札幌が招致を目指す2030年大会で、自らが果たせなかった五輪出場と金メダル獲得を後輩たちに託す。それを達成できる指導者になることをしっかり胸に刻み、次のシーズンへの準備を進めている。

(2020年10月20日掲載)
 

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