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2021/10/28 10:50

【アーカイブ・2020年連載企画】逆境を乗り越えよう⑦  スキージャンプ・原田 「ふ~な~き~」。開き直りで飛んだ金ジャンプ

 特別企画「逆境を乗り越えよう」の7回目は、ノルディックスキージャンプで1998年長野五輪団体金メダルに輝いた原田雅彦(51、雪印メグミルクスキー部監督)。94年リレハンメル五輪団体では、金メダル目前の状況から自身の失敗ジャンプで痛恨の銀メダル。そこからはい上がっての金メダル奪取だった。原田編は2回にわたって送る。(聞き手・西川薫)
(本連載企画は2020年に掲載されたものです)

想像を超えるプレッシャーに押しつぶされた

 V字ジャンプを早くから取り入れた原田は、初めて挑んだ92年アルベールビル五輪個人ラージヒル(LH)で日本人最上位の4位。2年後のリレハンメル五輪はメダルの期待が日本中で高まっていた。
 「急にメダルのチャンスが来たんです。しかも金メダル。想像を超えるプレッシャーがかかったことを覚えています。『プレッシャーなんてないよ、そんなの』ってコントロールしていたつもりでしたけど、肩に力が入って、冷静でいられないような状態でした」

まさかの97.5メートル「あの人失敗した人だよね」

 個人LHで13位。2日後の団体戦はしんがりを任された。そこで”リレハンメルの悪夢”は起きた。2回目の飛躍で105メートル以上を飛べば、日本の金メダルが確定したが、97.5メートルで銀メダル。
 「実はそういうジャンプを繰り返していたんです。W杯でも1回目はすごく飛ぶのに、2回目は飛距離が出ない。でも『次はあるじゃないか』って見過ごしていたことが、五輪という大きな舞台で出てしまった。なぜこんなに飛距離の差が出るのかと、ジャンパーとしてはそれを解明して五輪に臨むべきだった。帰国後、街を歩いていても『あっ、あの人失敗した人だよね』って言われたこともあった。私はいいんですけど、家族がそういうふうに言われるのはつらかったなぁ」

4年後長野五輪はお見事!最長不倒137メートル

 4年後の98年、歴史に名を残した長野五輪。3番手グループで迎えた団体戦1回目は79.5メートルの失敗ジャンプ。4年前の悪夢がよぎる。しかし、2回目は意地の137メートル、最長不倒を飛んだ。後続の船木和喜を見守って、あの「ふ~な~き~」の名言も飛び出す。
 「今でも覚えています。興奮して腰抜けちゃいましたけど。船木が着地して掲示板に『1』って出たのを覚えています。自分が復活するには開き直るしかなかった。リレハンメルの後、成績が出ずに『また迷宮に戻ったか』と、自分が行くべき道を見失っていた。でも最後は原点に戻った。子供の頃、ジャンプは羽を広げて飛ぶ感覚だった。考えていろいろなことをやって飛ぶと気持ちよくないんです。自分なりに飛ぶと、それが気持ちいい。内容も一番いいものになっていった」

後輩への金言「人間らしさを出してほしい」

 東京五輪が1年延期。夏と冬の違いはあるが、自国開催を経験した男は、重圧の乗り越え方を後輩たちに伝授する。
 「パフォーマンスを上げて注目されるのは一番いいこと。自分の中の人間らしさとかを前面に出して、いろんな人に印象に残るような選手になってほしい。こんなに大きなプレッシャーがかかることなんて、人生でなかなかない。幸せな体験。一人でも多くの方に体験してもらいたい」


■長野VTR 1998年2月17日。会場となった白馬は激しい雪と風。1回目が始まったが、助走路には雪が張り付き、助走速度が上がらず、飛距離を伸ばせない。日本は岡部孝信、斎藤浩哉がK点超えのジャンプを揃えた。3番手の原田がスタート台についたときには視界はほぼゼロ。中止になってもおかしくない条件下で79.5メートルと失速した.続く船木和喜も飛距離を伸ばすことができず、日本は首位と13.6点差の4位で折り返した。
 世紀の逆転劇はここから始まった。2回目になっても雪は激しさを増し、途中でやり直しに。すると日本は、1番手の岡部がジャンプ台記録を更新する137メートルで首位に躍り出ると、続く斎藤が124メートル。そして原田が137メートルの大ジャンプを決め、この時点で2位のドイツを24.5点差と大きく引き離した。最後はエース・船木が125メートルを飛んで、日本に夏冬通算100個目の金メダルをもたらした。
(2020年4月21日掲載)

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